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大分地方裁判所 昭和34年(わ)345号 判決

本籍 大分県大分市大字駄原二百七十二番地

住居 不定

無職 目野武男

大正十四年二月二日生

右の者に対する出入国管理令違反被告事件につき、当裁判所は検察官栗原賢太郎出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

本件公訴を棄却する。

理由

本件起訴状には公訴事実(ただし第一回公判期日において一箇所その字句が訂正された。以下の記載はこの訂正されたところによる。)として、

「被告人は日本人であるが昭和二十七年四月頃から昭和三十四年十二月上旬頃までの間に有効な旅券に出国の証印を受けないで本邦から本邦外の地域である中華人民共和国に向け出国したものである。」

と記載されてある。

ところで公訴事実は、審判の対象となるべき犯罪を構成する具体的事実であるから、最少限度その事実の同一性を判断するに足るだけの特定性及び具体性を必要とし(このことは旧刑訴上も判例の認めていたところである。昭和五年七月十日大審院判決刑集九巻五〇四頁参照)、公訴事実の表示にほかならない訴因もまたすくなくともこの程度の具体的事実たることを要し、「訴因を明示するにはできる限り日時、場所及び方法を以て罪となるべき事実を特定してこれをしなければならない」(刑訴法第二五六条第三項)と規定されているのもこの趣旨によるものと解されるのであるが、右の記載には、出国の方法が全く書かれていず、その場所も「本邦から」とだけ記されているのみであり、さらにその日時も「昭和二十七年四月頃から昭和三十四年十二月上旬頃までの間に」と表示されているのにとどまつているのであるから、本件起訴状には出入国管理令第六十条第二項第七十一条に該当する具体的事実は記載されておらず、その構成要件自体の抽象的記述のみが存するのにほぼひとしいと考えられる。従つてこのような記載では、そこに表示されている訴因のみならずその実体たる公訴事実もまた、右期間内に行われる蓋然性ありと常識上考えられる他の同種行為より自己を区別するに足るだけの限定、一回限り生起した歴史的事実たることを識別し得る具体性に欠け、本件審判の対象たり得るだけの、また被告人の防禦に支障のない程度の特定性を欠くものといわざるを得ない。

この点につき、検査官は、「刑訴法第二五六条第三項にいう犯罪の日時場所及び方法は犯罪の構成要件ではなく、訴因に対する構成要件的評価を異にしない限り、その他の記載と相俟つて訴因を他の事実から区別できる程度に記載されれば足りるものと解すべきである。」しかも「本邦から本邦外に密出国するというようなことは他の一般刑法犯などのようにあらゆる場所と時とにおいてひんぱんにたやすく行われるようなものではないから」本件起訴状程度の記載によつて訴因は特定されているものとみるべきで、出国の日時が一定の期間内にというように示されていても、また出国場所が明示されていなくとも、これらのことによつて訴因の特定が害されることはない旨主張する。

犯罪の日時、場所及び方法が罪となるべき事実そのものの要素をなすものと解すべきか又はそれらは罪となるべき事実の内容ではなくこれを特定させる方法にすぎないものと解すべきかについては見解のわかれるところであるが、後者の見解に従う場合においても、日時、場所、方法或はこれに準ずる他の徴表によつて全く限定されていない事実は、もはや一つの特定した歴史的事実でさえあり得ないというほかはないであろう。しかしまた、かような日時、場所、方法等は必ずしも厳密に表示される必要はなく、事柄の性質上おのずからある程度の不明確さを以て示されることも許容されるべきであり、しかも公訴事実及び訴因の特定とは全体としてのそれの特定であるから、これを特定させる因子ともいうべき個々の日時、場所、方法等のあるものに不特定な部分が存しても、他の因子と相俟つて一定の公訴事実、訴因全体を他のそれと区別できる程度に限定記載されておるならば、右の特定にはそれを以て足りるとすべきであろう。殊に本邦から中国に密出国するというようなことは、時処を問わず頻繁に行われ得る軽微な国内犯罪に比してたやすく行われ難い事犯であるから、その特定の方法には他の一般犯罪におけるよりはある程度のゆるやかさが認容されるべきであろう。そこで問題はその限定の程度如何にある。本件公訴事実のうちの中心をなす既成犯たる密出国行為そのものを特定するにあたつて、前述のような記載をもつて足りるとすることができるであろうか。出国の目的地たる本邦外の地域として中華人民共和国があげられている点を除けば、出国方法は全く記されず、出国場所も記載されていないのにひとしいし、出国日時については約七年八月間というきわめて長い期間のうちの一時点としてのみ表示されているにすぎないことはさきに述べたとおりであるから、日時、場所、方法等そのいずれの因子も、これらの因子をあわせた全体も何等本件公訴事実、訴因を特定するに足る具体性をもたないと認められる。本件密出国犯と他の一般国内犯罪との前記のような相違も畢竟犯罪の行われ得る頻度の量的差異に帰着するのであつて、右のような長期間は、本件密出国行為の前示特異性を斟酌してもなおかつその行為が二回以上行われる蓋然性を容れる幅を十分に持つた期間というべきであり、右の量的差異も、このような余りにも長期に亘る限定では、格別の意味を持ち得なくなるといわざるを得ない。

このことに関連して、検察官は、本件起訴の対象たる被告人の行為は被告人の昭和三十四年十二月十五日の帰国の直接の原因となつている密出国すなわち右帰国に対応する一回の密出国行為である旨当公判廷において釈明した。

この釈明は、密出国犯罪に特有な帰国と出国との相関関係及び捜査上犯行日時等を具体的に明らかにすることの困難な事情等をかえりみると、ある限度において本件公訴事実の不特定性を否定する意味をもつものというべく十分に考慮するに値するものであるが、かような釈明は本件公訴事実の不特定性をそれ以外の事実によつて間接的に補充する観念的な方法の域を出でず、本件公訴事実の同一性を識別させる具体性、客観性を有し得ない。従つてそれは本件公訴事実の不特定を補正追完し得るものではない。また本件公訴は昭和三十四年十二月十五日の帰国の直接の原因となつた一回の密出国行為をその対象とするという主張は、本件公訴事実を観念的に限定する意味をもつと同時に、その反面、右の密出国以外の密出国行為が前記期間内に行われた蓋然性乃至可能性を肯定する意味をも帯有しているのではなかろうか。もしそうだとするならば、本件訴因を肯認する判決が確定した後に右期間内におけるある具体的日時等を明示した被告人の中国への密出国行為の起訴される場合又は右期間内に二度以上被告人が中国へ密出国した事実の判明する場合を想定し得べく、前者の場合、この起訴された密出国行為が前記帰国の直接の原因となつたものではないということが確定されない限り、この起訴事実と確定判決を経た事実との間の異同を判別し難くなり、後者の場合、二度以上の密出国行為のうち本件密出国を除いた爾余のものとしての起訴及びこれに対する有罪判決の可能性が生ずるに至り、いずれの場合においても公訴の効力及び判決の既判力の及ぶ範囲等について困難な問題に逢着することになるのではなかろうか。

なお検察官が本件審理の経験に鑑み被告人が前示期間内に二度以上密出国した疑がないとして右のような釈明をしたとしても、公訴事実、訴因の特定性はその起訴状の記載自体及びこれに対する検察官の釈明自体によつて判断さるべきであつて、審理の結果得られた事実から逆に推論されるべきことではない(なお被告人は右期間内に二度以上密出国したか否かの点についても黙秘し、またこの点についてそのいずれかに断定するに足る資料は本件記録中に存しない。)から、検察官の釈明がこのような趣旨のものであるとしても、これによつて本件公訴事実、訴因が特定したものとすることはできない。(昭和三十五年二月二十六日東京地方裁判所刑事第八部判決、裁判所時報第三〇〇号三頁以下参照)。

従つて本件公訴はその公訴事実、訴因が全く特定せず、公訴提起の手続がその規定に違反したため無効であるときにあたるものと考えられるから、刑訴法第三三八条第四号によりこれを棄却すべきものとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 萩原直三)

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